この記事では、アドラー心理学を紹介した『嫌われる勇気』の内容から僕が印象に残ったことについて、その考えを書いていきたいと思います。ここで紹介するのは「課題の分離」です。課題の分離はアドラー心理学の中で「人間関係を円滑にするための考え方」として提唱されています。
課題の分離の概念
課題の分離の概念を簡単にというと、人間関係のトラブルについて、「自分の課題(自分がコントロールできること)」と、「他人の課題(自分がコントロールできないこと)」を切り分ける考え方です。
まず、「最終的な結果を引き受けるのはだれか?」という観点で誰の課題かを見極め、自分の課題と他人の課題を分離していきます。 分離した上で、自分の課題の解決に集中して、他人の課題には踏み込まないということになります。
課題の分離を説明する例として、ここでは「勉強しない子供に対して、親が勉強するように仕向ける。」という課題を取り上げます。
「最終的な結果を引き受けるのはだれか?」という観点でこの課題を考えると、「勉強をしない。」結果の責任を引き受けるのは親ではなくて子供です。したがって「勉強をしない」というのは子供の課題です。
「勉強しない。」ということが子供の課題である以上、「勉強しないとごはん抜き!」や「勉強して医者になりなさい」という強制は「他者の課題への介入」になり、アドラー心理学ではよくないとされています。
課題の分離を端的に表すことわざ
別の記事で、「馬を水辺に連れていくことは出来ても、水を飲ませることは出来ない」というイギリスのことわざを紹介しています。詳しくは下記参照ください。
この言葉は『嫌われる勇気』にも載っています。「人は他人に対して機会を与えることはできるが、行為を実行するかどうかは本人のやる気次第である。」という意味です。
- 相手のために自分が出来ることは限られていることを知る。
- 相手が自分の意図する行為を実行するか否かは相手が決める。
だから自分がそれについて悩む必要はない。 - 相手のために自分が出来ることを精一杯実行する。
という教訓があり、まさに課題の分離の概念と一致するところです。
また、このことわざは、馬の立場から見ると、「水を飲むかどうかは馬の課題である。」ということ、すなわち、「自分の行動を自分の責任で決める。」という教訓にもなります。
また、課題の分離の目的である、「変えられるものと変えられないものを区別し、変えられるものに注力する」ということについては、以下のことわざも参考になると思いますので、合わせて見てください。
課題の分離の誤解
『嫌われる勇気』の章立ての中で、「他者の課題を切り捨てよ」という表現が出てきます。このことから「課題の分離は冷たい考え方」という印象を抱いてしまう方が多いと思います。
ただ、『嫌われる勇気』の中でも、「アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません」と書かれています。そして、課題の分離によってお互いが関わらないようにするのではなく、依存したり、他者のせいにするのではない、尊厳のある関係を構築することを目指しています。
すなわち、課題の分離は尊厳のある関係を構築するための最初の課題であると言えます。
課題の分離とアドラー心理学の目標
では、「課題の分離は冷たい考え方」という印象を抱く原因なのですが、下記のアドラー心理学の目標が前提であることが理解されていないために起こると思っています。
- 人生面での行動目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること - 行動を支える心理的目標
③私には能力があるという意識
④人々は私の仲間であるという意識
特に、④の「人々はわたしの仲間であるという意識」がないと、「課題の分離=他者を切り捨てる」になってしまいます。
先の「勉強しない子供に対して、親が勉強するように仕向ける。」という課題だと、
「他者の課題を切り捨てる」考え方は「勉強せずに遊び呆けてもどうでもいい。それは子供の課題だから親としての責任は取らない」ということになります。しかしながら、これはお互いが関わらないようにする行為であり、尊厳のある関係の構築とは言えないです。
結局は、自分の子供を一人の人間として尊重するために「勉強することの必要性」を諭し、子供が自発的に勉強するのを待つのが「課題の分離」にも沿った行動ということになります。
課題の分離の難しさ
ただ、実際には「課題の分離」は難しいことが多いです。
他者の課題と自分の課題があいまいであることがほとんどであり、はっきりと線を引くのは難しいからです。また、いろいろな人の価値観がぶつかり合う中で生まれる様々な感情を自分の中でどう取り扱うか ということも自分の課題になります。
場合によっては、「自分の課題に対する他者の介入をどう取り扱うか?」という難しい課題にも向き合う必要があります。
僕が思う、課題の分離をするためのやっかいな課題は以下のとおりです。
- 「あなたのためを思って」という他者の自分の課題への介入
- 組織の中にある「わたしたちの課題」
「あなたのためを思って」
「あなたのためを思って」という言葉は、一見他者に対する課題を慮って提示しているように見えますが、その中には「自分の目的を満たす」という裏の意思が働いています。
つまり、「あなたのためを思って」に言い換えた「わたしの欲求」を通す目的があることを知っておいたほうがいいと思います。
それを理解した上で、「あなたのためを思って」言っていることを、忠告として受け入れるか、くだらないこととして受け入れないかは、それは「自分の課題」として決めればいいのだと思います。
あなたのためを思っての心理については、別記事でも書きましたので、そちらも御覧ください。
「わたしたちの課題」
特定の組織、共同体に属していると、共通の「わたしたちの課題」があります。
そして、「わたしたちの課題」を解決するための目標・ルール・行動指針があります。
これらに沿うことで組織に属する「わたしたち」は利益を享受していると思います。
でも、「わたしたちの課題」の中には「自分の課題」とは合わない部分が出てきます。
そのことにより、「わたしたちの課題」に沿うべきか葛藤が起きます。その葛藤をどうするかも「自分の課題」だと思います。
組織を抜ける選択も、葛藤を受け入れて組織の課題に沿う行動をとる選択も「自分の課題」として決めることなのだろうと思います。もちろん、決めたことによって何らかの不利益は生じますが、それも受け入れないといけないことだと思います。
課題の分離をするために、上記のように考えていくのがいいのだろうと思いますが、他者の課題と自分の課題を分けることは、行動を自分の責任として決断することとも言えます。
まとめ ~人生のタスクと向き合う「課題の分離」~
以上でアドラー心理学における課題の分離を解説してきました。まとめると
- 課題の分離は自分の課題と他人の課題を切り分けること
- 課題の分離は人々が自分の仲間であるという認識が前提であること
- 課題の分離は自分の責任として決断を伴うこと
最後に「人生のタスク」と「課題の分離」について、僕のことを書きながらまとめていきます。
僕は、上記の通り交友のタスクも、愛のタスクも避けています。いわゆる「人生の嘘」をつき続けている状態です。これを課題の分離に関連してみると、僕は「他人の課題を切り捨てる」という考え方をします。そして、「他人から自分の課題を切り捨てられても構わない」とも思っています。
それに関しては、「人々はわたしの仲間であるという意識」が欠如しているために生まれた考え方と思います。
先の「勉強しない子供に対して、親が勉強するように仕向ける。」という課題だと、
上記の勉強しない子供の例でいうと、
「勉強せずに遊び呆けてもどうでもいい。それは子供の課題だから親としての責任は取らない」という考えであり、「その結果子供から復讐をされても、一向にかまわない(取り合わない)」ということになります。
つまり、自分の子供を信頼していない、すなわち敵としてみなしているということになります。そのため、僕は結婚して子供を設ける幸せの形、言い換えると「愛のタスク」を回避する「人生の嘘」をついているということになります。
僕は「人生の嘘」をつく自分を受け入れているのでこれでいいのですが、普通の人には勧められません。
しかし、「人生の嘘」をつき続ける僕でも、課題を分離すること、そして自分の課題に没頭することで余計なことを想像したり、考えたりすることはなくなりました。
自分の願い通りうまくいかないことでも、「他人にはそれぞれ都合があるから、他人の行動を自分の課題として変えられるものではない。」「自分の課題に邁進して、できることに没頭する。」と割り切ることができるようになったと思います。
「自分の課題に邁進して、できることに没頭する。」ことによって、自分も他者に関心を寄せるように、少しずつ「他者を敵としてみるライフスタイルを変えていく」ことができるのではないかと考えます。