この記事では、dobbyが結局アドラー心理学をどのように捉えているのかということについて書いていきます。
今まで『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、アドラー心理学に言及した本を読んでどのように解釈したかを書いてきました。
アドラー心理学|休職中で発達障害の僕の人生経験に付加価値をつける実験 (dobbyhukakati.com)
ただ、今まで書いてきたことはどちらかというと一般論です。
自分の中で今後の生き方のヒントをつかむ目的で、自分のことと照らし合わせて書いていきます。
理想の生き方とは?
理想の生き方については、別記事で言及しています。
この中で、「仕方なく生きている」自分にとっては、
- 社会に関わるのは最小限にしたい
- しなくてはならないものを減らして、好きなことだけしていたい。
- (家族、友人、趣味などの)大事なものを維持するのがしんどいので、持ちたくない。
- 自分勝手や孤独のデメリットは受け入れる。
ということを理想の人生として書きました。また、このような生き方は「楽しいより楽を取る」ということにもつながっていると思います。
そして、そのようなことを理想として掲げている背景には、他者を敵と見るライフスタイルがあるように感じています。
目的論
目的論については、以下の記事でその内容に触れていますので、そちらを参照ください。
客観的には、何のメリットもないように見える行動でも、何らかの自分なりのメリットが有るから行動しするというのが目的論です。
過去の記事でもいろいろとデメリットになるような心理状態を書いていますが、それも自分にとっては何らかの目的があってのことだと思います。
例えば、褒められて嬉しくない心理にしても、成功体験を感じたくない心理にしても、ふつうなら「なんでそんな心理を抱くのだろう?」と思います。
でも自分にとっては、失敗したくない、相手に期待されたくない、そして自分に自信がないということがあり、負荷を避ける目的でそのような心理を抱いています。
言い換えれば、褒められる、成功体験を感じるためには苦労を重ねないとならないので、
それを避けてしまいたい心理が働いています。
自分は目的論に触れて、「出来ない」ではなく「やりたくない」んだということに気が付きました。
課題の分離
課題の分離については、以下の記事でその内容に触れていますので、そちらを参照ください。
他者への反応はどうなんだろうと考えるよりも、とにかく自分ができることを精一杯やってみるという意味で、自分にとって納得できるように感じました。
だからといって、課題の分離は時として他者のことを信頼しないと課題の切り捨てになってしまいます。
実際自分には他人の気持ちがわからないという、ASDの特性を感じているため、往々にして他者を傷つけることがあり、そのために行動を諌められることもあります。
でも、他者から行動を諌められるにしても、それを踏まえて行動を変えていくのか、それとも他者を傷つけても仕方がないと思って行動を変えないのか、それも自分次第なのだと思います。
自分は課題の分離に触れて、自己責任の範囲を考えるようになりました。
承認欲求の否定
承認欲求の否定については、以下の記事でその内容に触れていますので、そちらを参照ください。
他者承認欲求の否定である、「他者の期待を満たすために生きているのではない」というのはそのとおりだと思いました。自分の行動をどのように感じるかは、自分ではなく他者が主体であるので、そこに悩んでも仕方がないと思いました。
自己犠牲で自分を殺して生きていくと、やはりストレスがたまります。そういう意味で、自分は誰かに承認されたいという気持ちから行動するのではなくて、自分の意志で「何かしたい」と思って行動したことで、結果として他者に承認されることがいいと思います。
ただ、僕には、自分の本心を知ってほしいという自己顕示欲が強いことを感じます。
ペルソナを捨てて、人に嫌われる自分をさらけだすことで注目を集めようとしている負の承認欲求すら感じます。
決して、他者の期待を満たすために生きたいとは思わないのですが、嫌われることで、注目されたいという自分の欲求を満たすということにおいては、まだ、僕は他者からの承認欲求に縛られているのかもしれません。
共同体感覚
共同体感覚については、以下の記事でその内容に触れていますので、そちらを参照ください。
アドラー心理学の共同体感覚を理解するためには、
「わたしとあなた」という人間関係を起点とし、自己への執着「self Interest」を他人への関心「social Interest」へと切り替える。
ことが必要となります。
ところが、先に掲げた自分の理想の一つに「社会とできるだけかかわらない」ということがあります。これと共同体感覚は非常に相性が悪いように感じます。
結局僕は自分にしか関心がないので、今の自分に執着しすぎているのだと思います。だからといって他人へ関心を向けることもしんどく感じ、共同体感覚を得ることにはあまり前向きにはなれないのです。
したがって、下記で書いた自己受容、他者信頼、他者貢献も身についていません。(内容は以前書いた記事を参照ください。)
- 自己受容
→今の自分が生きていることを「仕方ない」と表現している。すなわち、
自分が生きている状態を受容できていない。 - 他者信頼
→他者のことを、自分勝手なことを邪魔する敵だと思い、猜疑心を持って
接している。 - 他者貢献
→自分勝手な行動を優先し、他者を仲間だと思い、役に立ちたいと自発的
には思えない。
ということを今は感じています。
まとめ ~自分は幸せになりたいのだろうか?~
以上で、自分のアドラー心理学をどう捉えているか、書いていきました。
自分の「仕方なく生きている」という考え、「楽しいより楽したい」ということ、そこからくる「社会との関わりを最小限にする」「大事なものを持たない」という自分の理想と、アドラー心理学の共同体感覚とは非常に相性が悪いと感じました。
「自分は幸せになりたくないのではないか?」とまで思ってしまいます。
自分が今までしてきた、幸せになるとは相反するような行動も、自分の理想を満たす目的としては合致するように思います。
もし、幸せになりたいと思うのであれば、自分の理想、そしてそのような理想になぜとらわれるのか、自分の責任で考え、修正していかなければならないと思います。
そこにはトラウマなどもあるかもしれません。まだそこまではたどり着けていないのですが、何かあるような気はします。
また、「苦労してまで幸せになりたくない」と今後も考えるのであれば、今の生きづらさを受け入れないとだめですね。
自分を変えていくのか、生きづらい自分を受け入れるのか。どちらもしんどい道ですが、だからといって、死ぬという選択肢はないです。だから、生きやすくなることを考えないといけないです。
結局アドラー心理学に触れて見えたことは、「変えるか、変えないかは自分次第」ということなのだと思いました。