この記事は、書籍紹介となります。
ここで紹介するのは、加藤諦三さん『「大人になりきれない人」の心理 』になります。
僕がこの本を手にとったのは、2021年11月です。
以前紹介した、岡田 尊司さんの著書「生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害」の中に「成熟した大人になることの拒否」という言葉がありました。
自分の特性については、いろいろな記事で紹介していますが、他者貢献や責任を回避ところが「成熟した大人になることの拒否」にピッタリ当てはまるのです。
そのため、「成熟した大人になることの拒否」という心理がどういう心理なのか、もっと詳しく知りたいと思い、今回紹介する『「大人になりきれない人」の心理 』を買ったのでした。
著者紹介
加藤諦三さんのホームページから一部抜粋します。
もともとは社会学者でしたが、ハーバード大学へ留学を機に渡米したことを契機として精神医学を知り、人間性心理学や精神分析学を学んだそうです。現在では社会心理学者として、80歳を超えた今でも出版、講演、パーソナリティなどで活動を続けられている方です。
章立て
この本の章立ては以下のとおりです。
- はしがき 子どものまま、大人になってしまった人々へ
- 第1章 「五歳児の大人」とはどんな人なのか
- 第2章 五歳児の大人は、五歳児の愛を求める
- 第3章 五歳児の大人が、自立する時の苦しみ
- 第4章 「母なるもの」にしがみつきたい
- 第5章 五歳児の大人たちの「心の支え」
- 第6章 自分と向き合えば、生き方が変わる
- あとがき
読書感想
この本にのキーワードである「五歳児の大人」という存在が「成熟した大人になることの拒否」する心理にすごく当てはまると思いました。そして、その原因が母親からの愛情であること、「五歳児の大人」が今後生きていく上での考え方が書いてあり、大いに参考になりました。
「五歳児の大人」
著者は、この本のはしがきの冒頭で、「五歳児の大人」について、このように表現しています。
大人になりきれない人たちはどういう心理か。
一口に言えば、自分一人が生きるのに精一杯なのに、
社会的責任を負わされて生きるのが辛くて、
どうにもならなくなっている人たちである。つまり、「五歳児の大人」である。
引用:『「大人になりきれない人」の心理』はしがき 子どものまま、大人になってしまった人々へ
また、「五歳児の大人」生きづらさについて、このように書いています。
心理的には五歳でも、肉体的、社会的には三十歳なのである。
社会はこの五歳児の大人に三十歳の大人の義務と責任を求めてくる。
これがどれほど辛いことであるかは、愛されて育った人には、
想像を絶するものがある。
引用:『「大人になりきれない人」の心理』はしがき 子どものまま、大人になってしまった人々へ
自分の回避性になる他者貢献・責任への回避というのが、「五歳児の大人に三十歳の大人の義務と責任を求めてくる。」ことにあると感じました。
この本に書かれていることと、自分の性格、困りごとになっていることをがことごとく一致するのです。例えば下記のようなことです。
- 心の成長がある時点でとまったままで、社会的に過剰に適応している状態。
- 自分の頭で考えることが必要になる青年時代に、その課題を逃げた「良い子」
- 生き方そのものが「楽しむ」ということに重点が置かれていない。
- 社会に貢献することがつらい。損をしたような気持になる。社会に貢献すること自体が喜びにつながらない。
- 自分の人生に困難がないことを期待している、というよりも、困難があってはならないと要求している。
- 他人を頼った選択など、楽な選択をした結果、自分で選択するという責任をもてず、そのツケに苦しむ。
- 自分の目的を持って生きていないので、生きていることがつらい。
そして、ことごとく本に書かれていることと、自分の性格・困りごとが一致することで、自分がどういう人間であるか、頭の中だけでモヤモヤと考えていたことがスッキリしました。
そして、休職前の自分がどうしてメンタルヘルスの不調に追い込まれるほど苦しかったのか、初めて腑に落ちるようになりました。
心の成長が遅れた「五歳児の大人」が社会的責任を負わされるのはしんどいよね、というのが結論になりました。
「五歳児の大人」を生み出す要因
このような「五歳児の大人」が生み出される要因として、著者は「母なるものへの願望が満たされていないこと」をあげています。
「母なるもの」というのは、母親が幼少期のころより子供に対して愛情を注いで接することになります。愛情を注いで接することで、親子の間で心の通い合った、互いに信頼しきった状態を形成することが出来ます。
この信頼関係があるから、子供は徹底してやりたいことをやることで、心が満たされます。
逆に、このような信頼しきった状態を形成することなく、「これはだめ」「あれもだめ」と母親がいうようになると、子供は母親からの恐怖に怯えるようになります。
母親を気にして、やりたいことをやる欲求を抑えて、母親の望むことを内心嫌と思いながらやるようになります。その結果、心が満たされず「五歳児の大人」になります。
一種の愛着障害の状態ではないでしょうか?
僕の場合で言えば、親から怒られることも多々あったのですが、反抗せず、じっと黙って時がすぎるのを待っていたことがよくありました。
結果として抑圧感を抱くようになりました。決して「愛してくれていない」ということではないのですが、影響はあるかもしれないです。
「五歳児の大人」の生き方
第6章「自分と向き合えば、生き方が変わる」において、「五歳児の大人」の生き方として、以下のようなことが書いてあります。
- 社会的責任を果たすための心理的成長、情緒的成熟が備わっていないことを認める。
- 自分が幼稚な人間であることを認め、さらけ出す。
- 幼稚な人間である自分が、今生き延びていることをとてもすごい事として認める。
- 「今に生きる」決心をする。
「五歳児の大人」にも周囲は容赦なく社会的責任を求めてきます。
「五歳児の大人」がその社会的責任を果たすには、自分が幼稚な人間であることを認め、周囲にさらけ出して、足りないところを補う助けを得なければなりません。
助けを求めるには、今自分ができることにベストを尽くす決心、すなわち「今に生きる」決心をすることが大事になります。
そして、「今に生きる」決心をする原動力になるのが、「幼稚な人間である自分が、今生き延びていることをとてもすごい事として認める。」ということだと思います。
僕は「自分が、今生き延びていることをとてもすごい事」とは思えません。
それは「惰性で生きている。」「生かされている。」という感情が未だに心の奥底に横たわっているからです。
だから、「惰性で生きている。」という感情をどこかで断ち切れば、「五歳児の大人」から離れることができるのではないかと思っています。
ただ、今の自分にはそれが難しいのも事実です。。。
注意点
この著者の文体なのか、著述スタイルなのかわからないのですが、枝葉の話が多くて、幹となる著者が伝えたいことが明確になっていないように感じました。
「比喩表現がわかりにくいこと」「同じような内容が章をまたいで繰り返されること」「前後の文章がつながっておらず論理が飛躍するように感じること」により、理解するのに時間がかかりました。
また、この本では「五歳児の大人」の象徴として著者の父親のエピソードがよく出てきます。例えば下記のようなものです。
私の父親は、ある時、「俺一人が働かなければならないということはないんだ。明日からみんな働きに出ろ!」と怒鳴ったことがあった。
引用:『「大人になりきれない人」の心理』第1章「五歳児の大人」とはどんな人なのか
このエピソードを読むとたしかに、父親としての責任を放棄したがっているように思えます。そして、このような父親を持つ子供の立場としては辛いということも伝わります。
しかしながら、父親のエピソードが繰り返し持ち出されることで、著者の私情というか、怨念が強く出すぎているのを感じます。
こうした著者の感情の思うままに書かれた文章が多くあることも、読みにくさにつながっているのではないかと思います。
自分の心理を知るという意味において、最初に読む本には難解な本だと思いました。
まとめ
以上、『「大人になりきれない人」の心理 』の書籍紹介、読書感想でした。
僕は別の本で自分の回避性の心理をある程度把握してから読んだので、「五歳児の大人」の概念、母親の愛情の注ぎ方の問題、そしてどのように生きるかということは頭に入ってきて、有意義な本でした。
ただ、先にも述べたように、この本を最初に読んでしまうと、「五歳児の大人って結局何?」ということになってしまう可能性もあるのかなと思います。
「いろんな書籍や記事を読み、自分がどういう人間かある程度把握したうえで、この本を読むのがいい。」というのがdobbyの読書感想ということになります。