この記事では発達障害の当事者であるdobbyが、「ファッション発達障害」について考えます。
ファッション発達障害とは?
「ファッション発達障害」とは、当事者ではないのに生きづらさの言い訳として発達障害を名乗る傾向を指す言葉です。
発達障害の概念が広がっていくとともに、いろいろな失敗について、「発達障害だからしょうがないよね~」みたいに、言い訳として発達障害を持ち出す風潮が出てきたように感じています。
発達障害の困りごと
ファッション発達障害についての考えを書く前に、発達障害の困りごとについて書いていきます。発達障害の困りごととは、
- 幼少期から現れる発達のアンバランスさによって、脳内の情報処理や制御に偏りが生じ、日常生活に困難をきたしている状態。
- 特定のことには優れた能力を発揮するが、ある分野は極端に苦手。
- 得意なことと苦手なこととの差が非常に大きく、そのために生活に支障が出やすい。
ということです。「普通の人の日常生活を想定した仕組みに適応できない」という困りごとが生じることで生きづらさを感じてしまう状態です。
困りごとについての詳細は以下記事も参照いただければと思います。
ただ、「普通の人の日常生活を想定した仕組みに適応できない」という困りごとについては、「定型発達の人が発達障害に合わせてくれ」ではなく、発達障害者が何らかの工夫をして合わせる必要があります。
なぜなら、全員が適応するように、特別な対応をすることはコストも労力もかかり、社会の仕組みを動かす上で非効率だからです。
発達障害をカミングアウトすること
僕は、下記の記事の通り、職場に対して発達障害であることのカミングアウトをした経験があります。
その結果ですが、職場からは下記の記事の通り指摘を受けています。カミングアウトはあまり良い印象を得られていません。
以上を踏まえてのdobby所感です。
職場などの周囲の人々が当事者に求めるのは、「発達障害だから出来ません。」ということではなく、「発達障害で困り事はあるが、こういう努力をします。」「このような配慮があれば、困りごとを出さずに働くことが出来ます。」ということです。
カミングアウトを受けて、環境、役割付与についてどのような配慮を当事者にするのか、職場が決める話です。発達障害者の就労に対して全く配慮をしないことも、「発達障害の困りごとが仕事の弊害になる」として、退職勧奨するのも職場の判断だと思います。
だから、発達障害をカミングアウトしたからといって、今までのことが免罪符にはならないし、これからの自分の生きづらさを軽減できるとは限らないのです。
特に「発達障害だから出来ません。」と言ったり、何の代案も呈示することなく「寄り添ってほしい」と言ってしまっても、望むような効果は得られないとは思います。
「発達障害だからしょうがないよね~。」と軽く言い訳して済む話ではないのです。
発達障害は「甘え」なのか?
発達障害は「脳内の情報処理や制御に偏りが生じ、日常生活に困難をきたしている状態。」であり、そのことでいろいろな困りごとが生じています。当事者からすると脳の機能の問題であり、「甘えていない」ということは言えます。
ただ、日常生活に困難をきたしているのであれば、いろいろなライフハックを使うことで困りごとを回避出来るということも言えるので、回避する努力をしないで「困り事が克服できない」というのは甘えだと思います。
更にいうと、周囲の人から見ると、困りごとの原因が発達障害なのか、甘えなのか分からない状態です。周囲の人にしても、興味があるのは「出来るか、出来ないか」ということでです。改善する努力が見えないまま「出来ない」と言われてしまうと、甘えと捉えられても仕方がないと思います。
繰り返しになりますが、発達障害の困りごとに対して助力を得ようとする場合には、自ら改善する態度であったり、自発的で具体的な配慮を働きかけることが必要だと思います。
だから、ファッション発達障害のような、生きづらさの言い訳として安易に発達障害を持ち出すことは甘えなんだろうなと思います。
原因論・目的論からみるファッション発達障害
発達障害にかかわる原因論、目的論的な考え方は以下の別記事に紹介しました。
原因論は一言でいうと、「今の状況があるのは過去に起こった出来事に原因がある。」という考え方です。一方、目的論は「私たちは、何かしらの目的があって今の状況を作っている。」という考え方です。ファッション発達障害の事例に当てはめると、
- 原因論としての捉え方
→「僕が生きづらいのは、発達障害に原因がある。」 - 目的論としての捉え方
→「他者から配慮してもらうために、発達障害ということを理由に
持ち出して、生きづらい僕を作り出している。」
ということになると思います。ファッション発達障害とは一見すると、原因論的な考え方で言い訳をしています。ただ、その裏には発達障害であることを理由にして、何らかの配慮を引き出す目的があります。
特にファッション発達障害の場合、自分で生きづらさを改善する努力をせずに配慮を引き出そうとしています。一見、その目的を隠していますが、周囲からはバレバレです。これではいい印象は得られないのではないでしょうか?
ファッション発達障害の弊害
生きづらさの言い訳として発達障害を安易に名乗る風潮が強まってしまうと、当事者がさらに生きづらくなると思いました。これが、当事者から見たファッション発達障害の弊害と感じます。
ファッション発達障害が広まってしまうと、本当に当事者が助けをもとめても「甘え」と一刀両断されることが多くなると思います。それは、ファッション発達障害自体が何らかの配慮を示す「甘え」だからです。
ファッション発達障害の「甘え」を周囲が感じてしまうことで、周囲からは発達障害ということ自体不快感を感じてしまうのではと思います。
たとえ、「脳内の情報処理や制御に偏りが生じ、日常生活に困難をきたしている状態。」ということを説明しても、また、「発達障害で困り事はあるが、こういう努力をします。」「このような配慮があれば、困りごとを出さずに働くことが出来ます。」という態度を示しても、「発達障害であることを周囲から受け入れてもらえなくなるのでは?」と思ってしまいます。
だからこそ、ファッション発達障害が広がってしまうと、発達障害は悪という見方も広がってしまい、ますます生きづらくなってしまうと思ってしまいます。
まとめ ~生きづらさ=発達障害とは限らない~
以上でファッション発達障害について書いてみました。まとめると、
- 発達障害の困りごとの解決には、まずは自助努力が必要
- ファッション発達障害は、安易に配慮を引き出そうとする行為である。
- ファッション発達障害が広がると、周囲の理解を得られにくくなる。
→当事者の生きづらさが更に広まる懸念がある。
ということになります。
ここからは僕の感想なのですが、「僕の生きづらさの原因は発達障害だけではないのでは?」と思うようになりました。個人の価値観、生きることへの考え方、他人との関わり、やりたいことの有無などいろいろあると思います。
だから、「生きづらさの言い訳として発達障害を名乗る」ことについて、安易な考え方だと思っています。そして、もし生きづらさの原因が発達障害だけであれば、最近はいろいろなライフハックも記事・書籍などで得ることが出来ます。
自助努力を続けていれば、いつかは生きづらさも変わっていくのではないかと思います。
ということは、ファッション発達障害の人の生きづらさの原因は、別のところにあるのでは?と僕は感じます。だから、安易に発達障害を生きづらさの理由として持ち出しても意味ないのではないかという印象を持っています。
最後に、先日カミングアウトした木下優樹菜さんの事例についても言及しています。これもファッション発達障害の問題にも関連すると思いますので、見ていただければと思います。