この記事では、アドラー心理学を紹介した『嫌われる勇気』の内容から僕が印象に残ったことについて、どのように解釈したかを書いていきます。ここで紹介するのは「劣等感と優越性の追求」です。
劣等性と劣等感
アドラー心理学において「客観的な事実」を劣等性、「主観的な解釈」を劣等感と言っています。もう少し言葉を付け加えると、
- 劣等性
→数値、序列などに基づいた客観的な事実にもとづく比較 - 劣等感
→客観的な事実、他者との比較に基づいて自分でする意味づけ
となります。
『嫌われる勇気』の中では、「哲人が過去に身長の低さに思い悩んでいた」エピソードを例にとって、劣等性と劣等感の説明がなされています。
- 劣等性
→平均より低い155cmという数値に基づいた客観的事実 - 劣等感
→「身長が高かったら楽しい人生が待っているのでは?」
と思う、客観的事実に基づいた哲人の意味づけ
上記のエピソードには続きがあります。
哲人が「身長が低い」悩みを友人に打ち明けたところ、「お前のその身長は人をくつろがせる才能がある」として「くだらない悩み」と一蹴しています。そして、これを聞いた哲人が身長の悩みを抱くことがなくなりました。
このことから、劣等感は、主観的解釈を変えることで感じなくすることができるということが言えます。
優越性の追求と劣等感
優越性の追求を簡単に表すと、「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」となります。そして、これと対になるのが「理想に到達できない自分が劣っているように感じる」劣等感になります。
ここで大事なのは、劣等感というのは「理想に到達できない自分」に対する劣等感であって、「他者との比較にさいなまれる」劣等感ではないということです。
他者との比較で劣等感を感じることは悪いことではないのです。
ただ、劣等感は劣等性と違い、主観的な解釈によって生まれるものです。他者との比較で劣等感を感じた場合、「他者との比較=自分の理想とのギャップ」と解釈できるかどうか、考えてみる必要があるように思います。
アドラー心理学では、優越性の追求も、劣等感も使い方さえ間違えなければ「努力や成長の促進剤となる」としています。
こじれた劣等感
ただ、使い方さえ間違わなければ努力や成長の促進剤となる劣等感も、こじらせてしまうと心理的、精神的に不健全な状態に落としてしまう原因になりかねません。
劣等コンプレックス
劣等感がこじれた状態として、まず挙げられるのが劣等コンプレックスです。これは劣等感を努力の促進剤にせず、「課題から逃げる言い訳」に使うことを指します。
劣等コンプレックスの例としては、「僕には学歴がないからどうせ成功出来ない。」があげられます。
そして、「僕には学歴がないから、どうせ成功できない。」という、一見すると因果関係が見られない事象に因果関係を結びつける状態が「見かけの因果律」です。
この例だと、学歴がない人は必ず成功出来ないわけではなく、現に成功した人がいるので実際には因果関係は成り立っていないのですが、「学歴がない人は成功できない」という主観(というか単なる思い込み)が入って、因果関係を自分の中で成立させてしまうということになります。
言い換えると、劣等コンプレックスを抱いて「どうせ成功できない。」と思っているのであれば、それは「成功したくない。」という本音があることになります。劣等コンプレックスや見かけの因果律を盾にして、成功するための努力をしない自分を正当化しているだけです。
もし、自分の中に「成功したくない。」本音があるのであれば、「成功したいとは思わない。」と、ストレートに言って嫌われちゃうほうがよっぽど精神的に健全ですね。
優越コンプレックス
また、こじれた劣等感は「優越コンプレックス」という状態を生み出すことがあります。
これは、「自分が優れた人間であるかのように見せかける」ことで、自分が劣等感を感じないようにする態度を指します。
優越コンプレックスの例としては、「僕にはすげー知り合いがいる。」とアピールしたり、お金がないのにブランド品に身を固めて金持ちを演じたりする行為が挙げられます。
優越コンプレックスは、自信のない自分に対し、内面の努力をせずに、外面だけ見繕ってよく見せようとしているだけです。このようなこじれ方をする人は、自分の内面を見抜かれると精神的に脆く崩れ去ります。
不幸自慢
さらに、劣等感を持つ自分がいかに不幸であるかアピールする「不幸自慢」をする人もいます。
「僕には学歴がないからどうせ成功出来ない、不幸な人間だ。」と自分が努力しないことを棚に上げてアピールする人がいい例ですね。
「不幸自慢」する人は、その人の不幸を他者から慰められても「あなたはわかってない!」と反発します。このように反発することで、自分の不幸を武器にして、周囲の人の心配や関心を買おうとしています。
不幸自慢している人が周囲の人の心配や関心を買っているうちはいいのですが、そのうち周囲の人は構うのに疲れて相手にしなくなります。相手にしなくなったところで、「あなたは僕の不幸をわかっていない!」言い続けるだけで、勝手に孤立していきます。
安直な優越性の追求
上記のことは、自分を「特別な存在」として扱ってもらいたいがために行うことです。
特別な存在になるためには、自身の優越性を追求する努力が必要となるのですが、その努力をせずに「特別な存在」になろうとすることが「安直な優越性の追求」になります。
また、特別な存在として認められたいということは「特別良く見られたい」ことばかりでなく、「特別に悪く見られたい」ことも含まれます。特別に見られれば手段はどうでもいいのです。優越性を追求することなく、問題行動に走ってしまうことも安直な優越性の追求に該当します。
ただ、特別な存在になっても、中身が伴わない不健全な精神状態ではあまり意味はないように感じます。特別な存在になっても、無視されれば脆いですから。
まとめ ~自分の理想に近づく弛まぬ努力~
以上で優越性の追求と劣等感について書いていきました。まとめると、
- 優越性の追求や劣等感は本来は努力や成長の促進剤となる
- 劣等感がこじれることで、努力をせずに特別な存在になろうとする、不適切な状態となる。
ということになります。
結局、劣等感をこじれさせることが問題であるということになります。
劣等感をこじれさせないためには、まず、「自分が求めていく理想」を自分が明確にすることと思います。そして、その理想は「他者から与えられた理想」「他者の要望に沿って求める理想」ではなく、「自分から近づいていきたい欲求を感じる理想」、すなわち「自分がしたいこと」でないといけないと思います。
「他者の要望に沿って求める理想」を目指す動機は低いので、挫折しやすいほか、劣等感をこじらせる状態になりがちだからです。
そして、自分の理想に着実に近づけていく道のりを自分で考えて、淡々と実行する。
他者に対しての期待は自分の理想に合致しなければ受け付けない。
自分の理想を突き詰めたところに他者に対しての価値提供がある。
劣等感と優越性の追求を考えてみて、以上のことを頭の中においておくことが大事だと感じています。