この記事では、アドラー心理学を紹介した『嫌われる勇気』の内容から僕が印象に残ったことについて、その考えを書いていきたいと思います。ここで紹介するのは「承認欲求の否定」です。
承認欲求とは
承認欲求とは何か?欲求が強くなる理由やメリット、デメリットなどを解説 | Indeed (インディード) によると、承認欲求とは、「尊敬、自尊の欲求」とも呼ばれ、「他人から認められたい、自分を価値ある存在だと認めたい」欲求を意味します。
そして、この承認欲求は「他者から認められたい」という他者承認欲求と、「自分が理想とする自己像に近づきたい」という自己承認欲求に別れます。
他者承認欲求の否定
アドラー心理学は、あなたの「承認欲求」を否定する! | 嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)の中でも触れられているのですが、アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定しています。
「承認欲求は普遍的な欲求であり、他者から承認されてこそ、われわれは『自分には価値があるのだ』と実感することができる。」と主張する青年に対し、哲人はそれを「賞罰教育の危うい影響」と評しています。
そして、「他者の期待を満たすために生きているのではない」としています。
ゴミ拾いの例
アドラー心理学は、あなたの「承認欲求」を否定する! | 嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)の中で、承認欲求に関連して哲人はゴミ拾いの問いかけを青年にしています。
「ゴミ拾いをして、周囲から感謝されなかった場合、それでも拾い続けるか?」という哲人の問に対して「みんなのために汗を流しているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。だったらやる気も失せるでしょう。」という根拠で「やめてしまうかもしれません。」と青年は答えます。
哲人はこの青年の回答に対し「賞罰教育の影響によって生まれた『ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない』という、誤ったライフスタイルである。」という厳しい指摘をしています。
まさにそのとおりであると思います。ゴミ拾いという適切な行動も、承認欲求を満たす邪な動機によって、「なんだ、自分の承認欲求を満たしたいだけなのか?」と思われてしまいます。
他者承認と自己犠牲
「ゴミを拾う」という行動は、本来は「自分が職場をきれいにしたい」とか「他人の負担を減らしたい」という自発的な動機からくるはずです。自発的な動機であれば、たとえ感謝が得られなくても、やる気も失せることはないし、感謝がないことに怒りを感じることもないです。
逆に言えば、他の人が「きれいな職場がいいよね。」ってゴミを拾うことを勧められても、自分が「めんどくさいから多少汚くても気にしない。」と思えば、別にゴミを拾わなくても良いわけです。
そして、「ゴミを拾う。」という行為は「みんなのため」とは限りません。自分が「褒められたいから、みんなのためにゴミを拾う。」と思っても、別に他の人が「多少汚くても気にしない。」と思えば、別に「ゴミを拾う。」という行動に関心を払うこともないです。
「他者の期待を満たそう」と思って行為をしても、その行為自体「他者の期待を満たす」ものであるかどうかは自分にはわからないから、ミスマッチが生じます。
そして、「他者の期待を満たす」だけの行為は「自己犠牲」です。
「自己犠牲」の裏にあるのは「本当はやりたくない」という感情です。
「本当はやりたくない」感情を抱えた行動に対して、目的である「感謝の言葉」が得られないのは、確かにつらいですし、長続きしないです。
なので、他者承認を求めるのではなく、自発的な「~したい」という動機で行動することが大事ということになります。
まとめ ~他者承認は副産物~
以上、承認欲求の否定について書いていきました。まとめると、
- 承認欲求は他者承認欲求と自己承認欲求がある。
- アドラー心理学では他者承認欲求を否定している。
- 他者承認欲求はの裏には「自己犠牲」があり、続けるのが辛い
ということになります。
タイトルに承認欲求の否定とあるのですが、ここで否定する承認欲求は他者承認欲求だけです。自己承認欲求はむしろ肯定されています。
『嫌われる勇気』の中で「優越性の追求」という表現が出てきます。これは自分の理想に対する劣等感を埋めようとする普遍的な欲求と説明されています。「自分が理想とする自己像に近づきたい」という自己承認欲求と共通している概念です。
そして、人間の五大欲求説でしられるマズローも、承認欲求のうち他者承認欲求のレベルにとどまると危険と評し、高位の自己承認欲求に進むことを提唱しています。さらにこれが満たされると高位の「自己実現欲求」につながります。
自分の理想に近づくための「自己承認」の欲求を満たすよう、内発的な動機によって行動しましょう。他者承認欲求自体を否定するものではないですが、それは一番に求めるものではなく、あくまで自己承認欲求の副産物として得られるものということを認識しておきましょう。